山あり谷あり、いい事もあれば、どん底の時もある。
それが人生というものだ。
と言ってしまえばそれまでなのだが、
人間だれしも、順風満帆、感謝されたり尊敬されながら、
楽しい人生を送りたいものである。
しかしながら、その多くを壁にぶつかったり、
誰かの一言で酷く落ち込んでしまい、夜も眠れなくなる。
考えても仕方が無いと解っていながら、何度も繰り返し考え、
その挙句、さらに落ち込み、疲れ果ててしまう事がよくあるものだ。
強く願うほど、否定が生まれる
そんな時には、厳しいもう一人の自分が顔を出して攻め立ててくる。
『なにやってんだ』『くじけてる場合じゃないぞ』
『立ちあがって前へすすめよ』『お前なら出来る』。
その内なる声に叱咤され、無理やり『そう私なら出来るはずだ』
と強く思ってみたものの、そんな時は必ずと言っていいほど、
別の内なる声が聞こえてくる。
『やっぱ無理だよ』『そんな事言ったって、また失敗するに違いない』
この声は、強く出来ると思えば思うほど、
その強さに反比例し反応するがごとく、
そうスーパーボールを壁に投げつける時、
強く投げれば投げる程、その力に応じて強く跳ね返ってくるあれと同じだ。
失敗は我々の自信を奪う
神社に参拝し、『私は○○を必ず成し遂げます』
と手を合わせたその瞬間に、
『本当は無理なんじゃないだろうか』と思ったり、
仕事で『この予算を何としてもやり遂げるぞ』
と仲間に発言しておきながら、『きっと色んな問題で難しいのでは』
と密かに思ってしったり。
目標を描いても、成功したイメージが明確に描けていない。
それどころか、失敗イメージをあえて描いてしまっていることだってある。
そしてそれが潜在意識に浸透して、
知らずしらずのうちに、失敗に向けて行動している。
失敗を望んでいるといってもいい。だから上手くいかない。
これらは、今まで生きてきた中で経験した失敗が
トラウマになっている事が実に多い。
それでも成功のイメージを明確に描けている人がいる。
しかしそれは、ほんの一部の自分を本当に信じる事が出来る自信家か、
前向きに考える能力を持つ楽天家か、
あるいは鈍感なだけの人ではないだろうか。
普通の多くの人々は強い自己防衛力を持つが故に、
あえて自分の身を守るために危険要因をあれこれ想像する力を持ち合わせていて、
その結果ネガティブな出来ないイメージを描いてしまいがちなのかもしれません。
だけど失敗は最大の師匠にもなる
元楽天イーグルスの野村監督がこんなことを言っていた。
『勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし』と。
つまり、何となく勝った勝利はあるけれど、
負けた時には必ず明確な原因がある』という。
だから、負けからは色んな事を学べる。あー負けてしまった、
運が悪かったですますには、勿体なさすぎる体験なのである。
だから、負けた時、その負けをどう解釈して何を学ぶかが大事だ。
もちろん、一生懸命努力したのに負けた時にはめげる。
落ち込む。心が折れそうになる。
しかし、その瞬間がなによりも大切で、
ためされている時なのかもしれない。
『本当にお前は目標を達成したいのか』
という覚悟を問われているのかもしれません。
その試しに合格した者にしか、
次なる成功を手にする資格は与えられない。
『負けは勝ちを味わう調味料。』
あの時の負けがあったから、この勝ちが格別になる。
味わい深くなるのである。
なぜならこの勝ちは、たまたま偶然の産物ではないからだ。
あの失敗の時に味わった苦い経験、屈辱、悲壮感。
どこにも逃げ場がない中でもがき苦しんだ経験が
私を育て成長させたから、この勝ちがある。
今の私は、あの時の私とは違う、
あの負けのお陰で強くなった私が勝ちとった成果だ。
そう思えた時の勝ちは格別である。
そう思うと、この格別さはある意味、
あの時の負けのお陰。
勝ちという味わいを引き立たせてくれる
調味料のようなものかもしれません。
どこで諦めるかが常に問われている
負けを屈辱や、苦悩という苦い薬で終わらせるか、
勝ちのための良薬として活用し、
来るべき勝ちでの調味料にするか。
その判断の決定権は我々にある。
だから『どうせ無理』『今回も負けるに違いない』
に押し切られないエネルギーが必要だ。
諦めるも諦めないも自分次第。
諦めなければ必ず勝つ保証はない。
しかし諦めたら、絶対に勝ちはない。
これだけは事実である。