それでもあきらめるな どん底人生

これからの人生を最高にしていくために

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強制収容所で仲間にパンを与える人

前回のブログで、第2次世界大戦時に強制収容所に収容され、
過酷な体験をしながら生き延びて、
『夜と霧』という本を出版し、
多くの人に勇気を与えたヴィクトリーフランクの記事を書きました。

www.k-genri.com

そこで、フランクルは、『どんな人の人生にも意味がある。
あなたを待っている何か、誰かが必ずある。』と教えています。

強制収容所で仲間にパンを与えた人

私が経験した、かつてのどん底の時に、
夜突然、目が覚めて、あれこれ考えることがありました。
考えても仕方がないのに、ただただ苦しみながら
無駄な思考を繰り返していました。

昼間に仕事をしていると、呼吸困難になるのかとさえ
思う時がありました。
緊張で身体の何かが締めつけられていたんだと思います。

そんな時の私の顔が携帯の写メの中に残っていますが、
びっくりするほど疲れた顔で、生気をなくしています。
余裕のかけらも見られません。

それだけ、追いつめられていたんだと思います。

『もう諦めてしまおう』そんな弱気に何度か陥りそうになりましたが、
ただ1つだけ自分に約束していたことがありました。

それはどんな事があっても最後まで取りみださない。
という事です。

色々と公の場で責められることもありました。
罵声も受けました。

その場は良くても、家に帰って布団にはいるとよみがえってきます。
『ふざけんじゃねー』『俺だって精一杯やってるんだ』
『自分事だけ考えて好き勝手いってんじゃねー』
どれだけこの言葉を吐きそうになったか。

しかし、フランクルが書いた『夜と霧』の中では、
明日殺されるかもしれない飢えと寒さの極限の状況でも、
弱った仲間に自分のパンを与え、励ます人がいたと言います。

そう考えてみたら私が最後まで取りみださずにいることなんて、
実にちっぽけな事に思えてきました。

『何故あなたたちは極限の状況でそんな事が出来たのですか』

私なんて、頭じゃ解ってるけど、
さっきまで偉そうに解ったような事を言っておきながら、
つい理不尽(自分で勝手にそう思い込んでいるだけですが)
に遭遇すると、いらっ 、むかっ、に心が支配され、
場合によっては顔や口や態度に出てしまいます。

そう思った時、ふと考えました。

『あの人たちだって、あの瞬間、迷ったんじゃないだろうか』
『傍にいる弱った仲間を見なかった事にして
このパンを食べてしまおうか思ったんじゃなかろうか』と。

しかし、その人はそうしなかった。
どんなに迷ったか知らないけれど、
最後はパンを与えるという選択をしたのです。

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決断の連続が私の人生を創って行く

我々は日々、何度も決断をしています。
『どうせ誰も見ていないからこのくらいでいいや』
『これは絶対に許さない、
あいつがどう困ろうと私が損するわけにはいかない』
『この判断は私に大きな痛手になる。
しかしどうしてもやるべきだ』
数え上げたらきりがない程の決断を我々は毎日行っています。

相当悩んだ挙句に決めるものから、
何気なくなんの考えもなく決めているものまで様々です。

しかし、その一つ一つが我々の歴史として、
刻まれているのも事実。

たとえ行動しなくても、頭の中で考えた事ですら、
私の人生の一部になっている。

そう考えた時、1つ1つの選択の重さに気付かされます。

だから、『どんな些細な事でも、ちゃんと決めよう』
そう思うのです。

誰かの言葉に影響されて簡単に決めるのではなく、
一時的な負の感情に押し切られるのでもなく、
ちゃんと自分らしく決める。

なぜならそれは私の人生の選択なのだから。

あの強制収容所のパンを与えた人も、
そうやって決断し自分の人生を創っていったんだと思います。

たとえ、収容所を出る事が出来なくて、
そこで一生を閉じたとしても、その人の人生は、
『パンを与えた人』として刻まれます。

自分の人生に何を刻むのか

何をどう刻むのかは、我々に決める権利があります。
この先、どんな出来事や宿命が待っていようとも、
それらをどう受け止め、どう解釈し、
どう選ぶかの選択権は、我々に与えられているのです。

だから目の前の1つ1つの判断に過たず、
たとえその選択が、かっこ悪く、
損な選択であったとしても、『これでいいのだ』

そう言って胸を張れる人生にしたいと思うのです。